『もしもこの世が快楽や心地よさを与えてくれるものでなければそこに何の意味があるのだろうか。
苦しみがないというだけでは生きている価値はない。
人は幸福でなければならない。
恋の情熱は私たちに最も大きな喜びをもたらし最大の幸福を与えてくれる。
だが恋愛がもたらす幸福は他人に依存している。これに対して学問への情熱は自分自身にしか依存していない。
あまりにも熱烈に人を愛する女の最大の不幸は、自分が愛するのと同じくらい愛されることが決してないことだ。
愛人の心を長くとどめておこうとすれば、その人の心に期待と不安とが常に交錯し続けるように技巧を凝らさなければならない。
今、私はその幸福を失ってしまったがこの愛の絆を断ち切るのにどれほど涙を流しただろう。
彼の愛がもう戻ることはないと知ったとき、私はこの愛を穏やかな友情に変えることができた。この友情が学問への情熱と重なって、私は今ほどほどの幸福を味わっている。
愛が不幸の原因とならないためには、愛人が冷淡になったときは決して執着心をしめしてはならず、愛人よりももっと突き放した態度をとるべきだ。
もちろんそれで彼が戻ってくるはずはないし、何物も彼を引き戻しはしないだろう。
けれど男にあっては愛よりも思わせぶりの方が長く続く。
だから不幸せになりたくなければ、きっぱりと別れなければならない。
さらに老年期は喜びを得るのがもっと難しい。
老いていくにつれていつか恋愛が幸せの源泉でなくなる日がやってくる。
そんな日のためにも学問の喜びを培わなければならない。
人生のお終わりを早めるかどうかは自分次第だが、もしなかなか終わらせることができないのなら、あらゆる方法で喜びを追求すべきだ。…』
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シャトレ侯爵夫人エミリー・ド・プルトゥイユ![ニコニコ]()
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さらにエミリーは1740年『物理学教程』と題した大作を出版した。34歳の時だった。
しかしエミリーを苦しめたことがあった。
他の女がヴォルテールの心を捕らえるようになったことだ。
まずヴォルテールを夢中にさせたのは美人女優ゴーサン嬢、ヴォルテールの戯曲『ザイール』のヒロインを演じた女性だった。
それはかりそめの愛に近いものだったがエミリーを気が狂わんばかりの悲しみに陥れた。
もっと恐るべきライバルはヴォルテールの姪ルイーズ(ドニ夫人)だった。
ヴォルテールには二人の姪がいたが、そのひとりルイーズに彼は特別の愛情をそそいでいた。
ルイーズが25歳になった時ヴォルテールはルイーズをシレ―城の隣人の息子に嫁がせようとした。
シレ―城に住んでいたヴォルテールはルイーズを自分の近くにおいておきたかったのだ
![ショック]()
しかしルイーズは田舎男を嫌い、当時相思相愛だった二コラ=シャルル・ドニと結婚した。
ルイーズの持参金はヴォルテールが支払ってやった
![キョロキョロ]()
![あせる]()
それから10年ちかく経過しルイーズが夫に先立たれ未亡人となると、33歳になっていたルイーズはヴォルテールの愛人となっていた。
ルイーズも教養のある女性だったがヴォルテールが心からその才能に敬服し、知的交換ができる女とみなしたのは生涯を通じてエミリーひとりだけだった。
エミリーの『幸福論』はそんな公文の中で書かれたものであり、それは彼女の心の叫びだった。
ヴォルテールとエミリーがシレ―城で生活しはじめた時29歳だったエミリーも40歳を超えていた。
ヴォルテールはルイ15世の愛人
ポンパドゥール夫人を公然と称えることで
王妃を侮辱する、という失態を演じ、追放の危機に瀕していた
![ガーン]()
(ポンパドゥール侯爵夫人
![ニコニコ]()
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エミリーの方も物理学者としての名声は得たものの、愛の不在に苦しみ、心の奥底に突き刺さるような孤独感にさいなまれていた。
ふたりだけでシレ―城に籠っているもとが窮屈になりロレーヌ公国のリュネヴィル城に滞在することを決意した。
(リュネヴィル城
![ショボーン]()
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休息と安全、娯楽と社交、そこにはすべてがそろっている。リュネヴィル城の当主はルイ15世の妃の父で元ポーランド王スタニラスであった。
(元ポーランド国王スタニラス
![ニコ]()
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陽気なスタニラス王の宮廷を取り仕切っているのは
愛妾プフレール夫人だった
![ニコニコ]()
![ドキドキ]()
![ドキドキ]()
王妃なきあとブフレール夫人は女王のようにリュネヴィル城に君臨していた。
美しく天性の浮気者であるブフレール夫人には王の他に恋人がいた。
(サン・ランベール侯爵
![ニコニコ]()
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その恋人の一人がサン・ランベール侯爵だった。
エミリーはサン・ランベール侯爵より10歳年上の42歳になっていたがエミリーは激しい恋に落ちる。
エミリーがサン・ランベール侯爵へ書いた手紙は99通現在まで保存されている。
1749年エミリーはランベールの子を妊娠する。
身重の体を抱えてもエミリーはパリへと戻り、朝から晩までニュートン理論解説の完成を急いでいた。
出産間近になるとエミリーは何かにとりつかれたかのように身辺整理を始めた。
ランベール侯爵に書いた手紙も処分するように頼んだ。
しかしランベール侯爵はその要求に応じなかった。(そのため皮肉にもエミリーの手紙が今日まで存在することになる
![えー?]()
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臨月近くなってもエミリーはニュートン理論解説の研究を続けた。。
![ショック]()
エミリーが出産して5日目急に熱が出てきた。産褥熱である。
エミリーは急いでニュートンの解説の原稿を持ってこさせ、手渡された草案に1749年9月10日と日付けを記した。
43歳を目前にしてエミリーは産褥熱で息を引き取った。
ショックを受けたヴォルテールはランベールに向かって「彼女を殺したのはお前だ!」と叫んだ。
ヴォルテールはその生涯において幾人もの愛人をもったがエミリーほど強い絆で結ばれた女性は他にはいなかった。
愛と学究、それは生涯を通じてエミリーに生きる喜びを与えた二つの情熱だったが彼女の命を奪ったのもこの二つの情熱であった。
シャトレ侯爵夫人エミリーがフランス語に翻訳し解説したニュートンの『自然科学の数学的原理』(プリンキピア)が出版されたのはエミリーの死後から10年たった1759年だった。
それから250年近くたった現在も彼女の訳書はフランスにおいて復刻され、市販されている。
英語圏やラテン語圏では、プリンキピアは古典の名著の1つとして数多くの古典体系の中に入れられている。